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誰も何も教えてくれないから、おれも話してやらなかったし、いろんな物、盗んでやった。そしたらこっちを向いたけど、おれが盗んだ物全部取り返したら、さっさと帰って行った。
この前、俺を殴った奴を崖から突き落としてやったら、そいつは死にかけた。いい気味だった。だから村の奴らはおれを怖がってる。金を持ってりゃあ、おれだって買い物ぐらいできる。でも金が無いから拾うか盗むしかない。
いつからか浮幽霊が異常に増えて、村のあちこちで浮幽霊を見かけるようになった。それから村で病気が流行ってたくさん死人がでた。みんな馬鹿だ。病気が流行ったら医者を呼べばいいのに、変な家を建てて神様に住んでもらおうとした。そしたらただの人間の男が住み着いて、みんなそいつの話を真剣に聞き出した。唄ったり踊ったりして、神様に病気から守ってもらおうとした。
おれもその家に行ってみようと思った。誰もおれを家に入れてくれない。おれは前から自分の家が欲しかった。自分の家。おれが住む家だ。気に入った奴しか入れてやらない。
おれはほら穴に住んでる。多分生まれた時からここにいた。覚えてないけどたぶんそうだ。でも村の奴らが勝手に忍び込んで、返り火を振り回して、おれが昔から一緒に住んでいる浮幽霊達を追いやった。浮幽霊は自分では逃げられないのに、返り火を当てられた浮幽霊は苦しそうにやっと動いていく。
浮幽霊には顔も手も足も無いけど、生き物だってことはおれにも分かる。おれみたいに逃げたり歩いたりはできないけど、風が吹いてなくても、ゆらゆら湯気みたいに揺れてるし、夜は薄青に光っているから。
それにおれは浮幽霊が生まれるところを二回も見たことがある。何も無い場所に、いきなりグルグル渦巻いて現れた。きっとおれもこうやって生まれてきたんだ。父も母もいない生き物は、神様に選ばれなかったから嫌われる。だからおれも浮幽霊も嫌われ者だ。
「‥‥‥」
家があればきっと嫌われたり馬鹿にされたりしない。
「そんなことで人間の価値は決して決まらない」
牧師様が言った。神様の代わりに、あのおかしな家に住み着いた人間だ。あの家は教会といって、屋根の上にある十字架に神様がいるとみんな信じている。おれは信じない。
村で威張っているノッポの金持ちがいたけど、牧師様はそいつよりデカい。ノッポよりデカいのに、ノッポよりも威張ってないのがおもしろかった。
牧師様とまともに話すようになったのは、おれが十才になってから。だからあれは、おれがまだ九才の時だった。昼前に教会の裏口から忍び込もうとして捕まった。ああ、きっと村に連れ出されて、また村の奴らに嫌われるだろうな。殴られるだろうな。また泥棒と言われるだろうな。そう思った。でも牧師さまはおれの話を聞いてくれた。
「裏口から忍び込んだからといって泥棒とは限らない。どのような用で来たのか正直に言いなさい」
時間はかかったけど俺は正直に言った。
「あの赤や黄色や青の窓が欲しかった。でも盗もうとしたんじゃない。あんな高い場所、登れやしない。この家がどんなふうにできているのか、中の様子が知りたかったんだ」
おれは自分がほら穴に住んでいて、自分の家が欲しいことを話した。
「あと、村の奴が唄っている時に、不思議な音を聞いたんだ。今さっきもだ。おれも近くで聞いてみたい。おれを村の奴に突き出すか?」
「なぜだ? お前は何もしてないのだろう?」
「でもおれは、今まで幾つも盗みをした。村の奴らはみんなおれを泥棒って言う」
牧師様は教会の時計を見上げて言った。
「私はこれから神に祈りを捧げなければならない。今日はひとまず帰りなさい。また明日、もう少し早い時間に来られるのなら、お前と二人きりで話ができる。村の者が一緒では都合が悪いのだろう?」
信じられなかった。牧師様にはおれが考えていることがみんな分かるのだろうか。それから、このおれにまた来なさいと言った。
「おれは神様を信じてないぞ。それでもいいのか? 本当に来てもいいのか?」
牧師様はそれでも構わないと言った。それからおれに果物とパンをくれた。
「もう村で盗みをするのはやめなさい」
いつだったか、村の子どもが死んで、そいつの父と母が悲しんでいるのを見た。牧師様もそんな目をした。
次の日から、おれは毎日裏口から教会に通った。昨日よりも少し早い時間。
赤や黄色や青の窓はステンドグラスといって、あの不思議な音はパイプオルガンという楽器を鳴らすと聞こえてくるのだ。おれはこの頃はまだ、牧師様とほとんど口をきかなかった。ただ、牧師様が鳴らすパイプオルガンの音を聞きながら、太陽の通ったステンドグラスを見ていた。あれを見ていると、嫌なことが忘れられた。時々パイプオルガンの音に混じって、「アージ」と呼ぶ声が聞こえてくるのだ。
おれは自分のことは名前しか知らない。九才よりもっと子どもの頃、村の大人がおれのことを指差して「アージ」と呼んでいた。だからきっとそれがおれの名前だ。おれは初め、自分が何才かも知らなかった。
人間には誰でも生誕日があって、それを子どもの内は父と母に数えてもらうのだ。牧師様がそう言った。おれには父も母もいなかったから、だから神様を信じない。おれに、父は母もくれなかったから。
十才の生誕日に、やっと牧師様とまともに口をきいた。その時、おれが何才なのかを牧師様が決めてくれた。「うーん」と頭を捻って決めてくださった。
「アージ。おまえは十才だ。そして今日、九月二十五日に自分の家で生まれたのだよ」
それからおれの裸を見て、「おまえはショセイジだな。コウガンが無い。男子はすぐ分かる」と言った。牧師様はよくおれの知らない言葉を話した。
『ショセイジ』『コウガン』
おれには『セイショクキ』のコウガンが無いからショセイジなのだそうだ。おれはこの教会で生まれたことにしてくれと頼んだ。そしたら牧師様はダメだど言った。
「おまえは十年前の今日、九月二十五日に、洞穴の中で生まれたのだ」
おれは「嫌だ、この教会で生まれたことにしてくれ」と何度も頼んだ。
「いつも言っているだろう、アージ。自分が生活している場所をなぜ恥じる? どんな家に住んでいるかなんてことで、人間の価値はけして決まらない」
おれは言ってやった。
「牧師様は教会を建ててもらって住んでるじゃないか。だからそんなことが言えるんだ」
「そこまで言うなら、ここで暫く生活してみるか?」
おれは驚いたけど、それを隠した。牧師様はおれが神様を信じていないことを知っているのに、教会に住むかとおれに訊いた。おれが黙っていると、おれを表口から通した。おれは初めて表口から教会に入り、おれはここで暮らすことになった。
教会での生活は、朝五時に起きて山羊と犬とにわとりに餌をやるところから始まった。それから神様にお祈りをして歌を唄い、その後で食事を食べる。牧師様が村の奴らのお祈りを手伝っている間、おれは昼まで字を覚えた。聖書を自分の力で読めるようになるためだ。そして少ない食事を食べて、午後からは町まで買出しに出かける。これが嫌だった。
牧師様はおれが教会に住んでいることを、わざわざ町の奴らに喋った。町でもおれは悪者で知られていた。それなのに、一緒に買い出しについて行ってくれたのは最初の一日目だけだった。
「これからはこのアージが買い出しに向かいます。よろしくどうぞ」と、あちこちの店にあいさつをしに連れて行かされた。それなのに村の奴らをよろしくしてくれなかった。また俺が盗みをするんじゃないかとヒヤヒヤしているのが分かった。そして陰口を叩く。おれはさっそく牧師様に訴えた。
「アージ。それは今までおまえが村で盗みを働いた報いだ。おまえはそれを受けなければならない。私は村の者達に、わざとおまえのことを話した。おまえが憎くてやったことではない。もしそうであれば、おまえが店に来ても何も売るなと言っている」
そう言って聞いてくれなかった。報いとは罰のことだ。
その次に嫌だったことが、昼に少し食べた後、夜食までの間、何も食べられないことだった。何度、また食い物を盗んでやろうかと思ったかしれない。その腹が減って死にそうな時に、夜食の時間まで教会を掃除しなければいけないのだからたまらなかった。ごちそうが出る夜食だけが一日の楽しみだった。
でも、教会に住むようになって十日目。その夜食のごちそうが中止になった。おれが掃除をサボって盗み食いをした報いだった。庭の木から勝手に実を採って食べた。山羊の乳を搾って飲んだ。牧師様がよく庭を覗く窓がある。そこから見える場所だけを掃除した。だから教会の返り火のロウソクを取り換えるのも忘れて、そこに浮幽霊が寄り集まっていた。
その夜出された夜食は、パン一切れと水が一杯。牧師様も同じ食事を食べた。
「おまえのことをいつも見守ってくださっている神も、同じ食事をとられておる。おまえの今日の行いのせいだ。今日のおまえにはがっかりさせられた」
牧師様はそう言った。
「神様なんて本当はいやしない! おれは神様なんて信じない! いもしない神様ががっかりなんてするもんか!」
おれはまた口答えした。神様なんか信じないと言った。そしたら牧師様はこう言った。
「違う。そうではない。私ががっかりしたのだ」
おれはその夜眠れなかった。盗みよりも悪い、絶対にしてはいけないことをした気がした。牧師様はおれを嫌っただろうか。おれを見損なっただろうか。いつか牧師様が言ってた。相手にがっかりするということは、それだけ相手を信頼する気持ちが大きいからだ。その相手と喜びを分かち合いたい。相手が困っているのなら、少しでも苦しみを和らげてあげたい。そう思うからだ。だからその気持ちを裏切られたと分かった時、相手に対してがっかりするのだと。おれはほとんど寝ないで朝を迎えた。
おれは午前中の間、一言も口を利かないで過ごした。買い出しから戻ると、牧師様はいつも通り神様にお祈りを捧げていた。牧師様はおれが帰ってきても、デカい背中を向けたままだった。お祈りをしているのだから当たり前なのに、牧師様がわざとおれにそういう風にしているように感じた。
「違う。そうではない。私ががっかりしたのだ」
牧師様の顔が、どうしても見たくなった。それを我慢して、おれはやれるだけ働いた。おれが今していることは無駄なことだろうか。この時ばかりは神様に訊いてみたくなった。でも、神様はやって来ない。だいたい、もし現れたとしても、どんな顔か知らないのだ。おれは精一杯働くしかない。
夜食の時間にテーブルに並べられていたものは、今までで一番のごちそうだった。おれは喉が詰まってなかなか食べ始められなかった。牧師様は食べる手を止め、おれに声を掛けてくださった。
「アージ。人を好きになることよりも、人を許すことのほうが難しい。でも、その難しいことができたのなら、これほど堅い絆はない」
また初めて聞く言葉があった。
「私が日頃から口にしている人間の価値。おまえは今日一日、懸命に働いた。昨日の自分の行いを取り返そうとした。誰だって間違いは犯す。もちろんこの私もだ。人間は生きていると何度も間違いを犯すものだ。ただ祈っているだけの者には何も起こらない。人を許すことは難しい。それでも人間が生きているいけるのは、神が人間に対して、その難しいとされる許すということをしてくださるからだ。これは人間同士にも言えることだ。例えばアージ。おまえと私だ。失敗をした時、間違いを犯した時、それだけですべてが決められたら、人間の誰もが救われないだろう。私はこう思っている。人間の価値はその次の行動で決まると。神を信じぬおまえ。それならば人を信じなさい。これから出会う、自分に親切にしてくれる人、自分の為に時間や労力を割いてくれる人に、いい加減な態度を取らずにいなさい。今日、おまえは私に喜びをくれた。人を許すという難しいことが、今日のおまえの行いを見て簡単にできた」
おれはやっと牧師様の顔を見ることができた。優しい顔だ。なんて優しい顔だと思った。
「さあ早く食べなさい」
プロローグ 1 アージ<2>へ つづく
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